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第3回 牧之原開墾の功績者1−中條景昭ちゅうじょうかげあき 98/10/16

中條景昭像(種月院蔵)

 幕末、開国によって日本の体制は大きく変革し、政治経済はもちろん思想、教育、庶民の風俗まで一大変革をもとめられた時代。武士の地位が崩壊していく混乱の世で、中條景昭たち旧徳川幕府に仕えた幕臣たちは、牧之原開墾に自分達の第二の人生を賭けました。数百人の開墾士族をまとめあげた時代のリーダー中條景昭は、今も彼等が開墾した地牧之原で遠くひろがる茶園を見守っています。

武士たちの失業
 中條景昭は、文政十年、江戸六番町に旗本の庶子として生まれました。嘉永七年(1854)より13代将軍家定に仕え、家中の武士たちに武術を指南する剣術・柔術世話心得などを歴任する剣客であったといいます。
 慶応三年(1867)、将軍徳川慶喜が大政を奉還して江戸城から水戸に退く時、慶喜の護衛に当たった精鋭隊(のちに新番組)の一員として慶喜とともに駿府(静岡)へ下りますが、当時の情勢はめまぐるしく変化し、家達が藩知事となると新番組は使命を終えて解散。大量の武士たちが失業することになります。明治新政府の朝臣となる者、剣を捨てて農民や商人となる者、あくまで幕臣の道を歩もうとする者...旧幕臣たちは、生き抜く術を自ら決断しなければならない転換期に立たされていました。

剣を捨てて鍬をとる

勝海舟

 中條景昭隊長以下数百名の隊員たちは、半年ほどのあいだ久能村(現清水市)に住んでいましたが、協議の末、牧之原開拓に入ることを当時の静岡藩大参事の平岡丹波、藩政補翼の勝海舟らに申し入れました。後に伝えられた勝海舟座談によれば、このとき中條は、「聞くところによると遠江国の金谷原はギョウカク不毛の土地で、水路に乏しく、民は捨てて顧みざること数百年に及んでいる。若し、我輩にこの地を与えてくださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」 と誓い、その志が通じて勝らの協力が約束され牧之原入植の方針が決まったといいます。その後、江戸留守居関口隆吉、松岡万など、現地の事情に通じた人々に検討され、士族の開墾方としての身分を得ました。中條の言葉にあるように、牧之原は広大な面積があるばかりでなく、幕府直領として放置されていた土地であったことが開墾の許可を容易にしました。
 明治2年7月、家達の許可を得て、中條らは「金谷原開墾方」と称して牧之原荒野の開墾を開始します。約250戸の元幕臣たちが牧之原へ転住し、1,425町歩の開墾を始めました。当時、組頭(隊長)中條は42歳、頭並(副隊長)大草太起次郎は34歳で、開墾方には先輩格が38名、30歳未満の者が160名と若年の者が多く、身分の高い武士もいれば能楽師もいました。これらさまざまな人々2百名余を昨日までの地位身分に関係なく、農耕開拓団として統率していかなければなりません。中條ら開墾方の首脳たちは、この開墾組織を運営していくにあたって多くの仲間をまとめ、さまざまな取り決めや仕組みをつくりあげていった優秀なリーダーであったことがわかります。入植に不安を抱いて脱落する者も多い中で、中條ら幹部は着々と開拓を進め、明治4年には造成した茶園は500ヘクタールに達しました。(これには、明治4年に入植した川越人足や農民の開墾も含まれると思われます。)

製茶会社設立構想
 牧之原はやせた土地のため種を蒔いた後の生育が遅く、初めて少量の茶芽を摘採できたのは、明治6年のことでした。その明治6年になると、それまで官有地であった土地は、浜松県から各人に下付され私有地が確立したので、農民等に対する売買もできるようになり、徐々に中條らの統制から離れてゆくことになりました。明治7〜8年頃に、中条は神奈川県令(知事)にとの誘いを受けましたが、「一たん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」と一笑にふしたといいます。初心を曲げず、開墾方の頭として人々をまとめ、その後も開墾に励みました。
 また、中條は明治11年2月には、牧之原氏族全員の連署で、時の県令大迫貞清に牧之原製茶会社(株式)を設立し、個々に製茶していたものを数百町歩の茶を集めて共同製茶し、輸出を図りたい、さらに情勢によっては紅茶製造も考えたいという大きな構想をうち出しています。結局この事業資金の請願は却下されましたが、当時、茶は生糸とともに日本の代表的な輸出品目であり、その再生や輸出利益は外国資本に握られていたため、政府が茶の直輸出に力をそそぎはじめたことが影響していると思われます。加えて丸尾文六が、明治11年にやはり株式会社組織で対米輸出を始めています。会社設立は果たせなかったものの、時代の流れを見据えて組織の反映に尽力した中條ら首脳陣の前向きな努力が窺われます。
 中條は生涯頭の丁髷を切らず、前の「最後はお茶のこやしになる」のことばどおり明治29年1月19日に77歳をもって、生涯を捧げた牧之原の一番屋敷で死去しました。葬儀には、勝海舟を葬儀委員長として初倉村(現島田市初倉)種月院に葬られ、士族たちは中條の死を悲しんで三七21日の間、墓参を続けたといいます。昭和63年、島田市は市制施行40周年と全国茶行品評会を地元で開催をする期に関係者によって中條景昭の偉業をしのび、谷口原に立像と記念碑を建立しました。

 

*参考文献 『牧之原開拓史考』 大石貞男著 静岡県茶業会議所
  『静岡県歴史人物辞典』 静岡新聞社発行
  『牧之原開墾の曙・覚書』 榛葉禮一著 田中工房
  『ふるさと百話 11』 静岡新聞社発行
*画像 『東海道小夜の中山』 (財)静岡県中部建設協会発行より

 

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