You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 街道の歴史 宿場のようす 掛川宿  

 

掛川宿

東海道第26宿掛川宿
日本橋から220キロ
総家数:960軒
本陣2,旅籠屋30
宿全長:東西八町
(天保14年大概帳)
江戸以前の懸河

 古代、交通の要所として設置されていた遠江五驛のうち横尾駅が現掛川のあたりであろうといわれています。掛川の名については、『吾妻鏡』に「懸河」の地名がはじめて登場しています。中世になると豪族がこの地に館・砦・城を築いていたらしく、応仁期には大きな城邑を築いていたといわれます。
 掛川宿の城下町としての歴史は、今川氏が遠江侵攻の足掛けとして室町時代の文明年間(1469〜1487)に家臣朝比奈泰熙(あさひなやすひろ)に掛川古城を築かせた頃から始まります。泰熙は、掛川城(古城)を天王山に築き、この城下町形成にあたって、街道を逆川の南側に変更してます。永正以前の懸河宿は、この天王山あたりを呼んだものと思われます。この懸河という呼称は、松尾曲輪の内、池東の低地の数十歩の間を懸河と呼び、その地形が川の流れが迫って、懸崖であったためではないかといわれますが、西宿のあたりが倉真川と逆川の合流地点であることからきた呼称とも考えられるそうです。
 その後、永正十年(1513)ごろ、この古城の南西方向にある竜頭山に、現在の掛川城の前身となる新城を築き、江戸時代には徳川氏譜代の諸大名が入れ替わり入封し、現掛川城付近が宿場として栄えることになります。  

江戸以降の掛川宿
「懸川」安藤広重
 江戸時代の掛川宿は、慶長初期に山内一豊が形成した城下町です。一豊は逆川を利用して城下町を境堀で囲み、境堀内の当初の町は、表通りに木町(喜町)・仁藤町・連雀町・中町・西町、裏町に塩町・肴町・紺屋町・研屋町、横町に瓦町の10の町から成っていました。時を経て境堀東の外側に町並みが発展し、元和6年(1620)に新町として加えられて11カ町となり、さらに文化3年(1806)には下俣町・十九首町が加わって13カ町と発展していくました。『東海道宿村大概帳』(天保14/1843)によると、宿の境は、東側上張村、右側仁藤村から西の境左下俣村、右大池村までとあり、おそらく新町より西町分十王町までの間と思われます。町並は東西8町、宿内人口3,443人、総家数960軒、旅籠屋30軒とあり、川越えを控えた金谷宿よりも宿の規模は小さいのですが、宿周辺の11町(のちには13町)が伝馬町、人馬役町として指定され伝馬宿として栄えていました。伝馬町に対しては、馬1疋につき地子(じし/屋敷課税)を免除する制度がありましたが、その率は一定でなく、平均馬1疋に対して40坪だったのに対して、掛川宿の場合は60坪でした。これは掛川のような城下町は藩体制において運輸・郵送上重要な役割を果たしていたからだと考えられます。
 

掛川宿の今

東海道七曲がり 掛川城
掛川城下のまちなみ 大手門
 現在、掛川のシンボルとなっている掛川城天守閣は、JR掛川駅から北へ700mほどの小高い山頂にあり、平成6年に市民の寄付により復元されたお城です。天守閣からは城下町や周辺の里山が一望でき、建築時の発掘調査によって発見された、大手門跡や三日月堀など当時の史跡を保全し紹介しています。また、かつての城下町にあたる市街地の施設や商店は、漆喰風の白壁やなまこ壁に瓦葺きの建築を取り入れたまちなみを形成しています。

東海道の旅>掛川城へ

二の丸御殿 太鼓櫓
仁藤の大獅子 大日本報徳社
城の東側には、安政時代に建てられた二の丸御殿があり、その北側には江戸時代の侍屋敷跡である竹之丸や大正の洋風建築を移築した大日本報徳社など、歴史的な名所を散策できます。
また、掛川宿の東側の入り口にあたる、成滝から新町にかけて東海道が鍵ノ手に曲折した道は「七曲がり」と呼ばれ、敵の侵入を阻むつくりがそのまま残されており、城下町のなごりを見ることができます。

東海道の旅>掛川宿へ

*参考文献、画像提供: 『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『ふる里かけがわ 第7集』掛川市教育委員会
  『掛川市史』掛川市史編纂委員会 画像提供
  『掛川城のすべて』掛川市教育委員会教育課
  『静岡県歴史の道 東海道』静岡県教育委員会

 

金谷宿 日坂宿 掛川宿  

 

お気軽にご意見ご感想をお寄せください。

お茶街道文化会
主催:カワサキ機工株式会社