You are here: TOPPAGE 歴史探訪案内 昔ばなし 第3回 無間の鐘 『無間の鐘』に関連するお話と資料  

『無間の鐘』に関連するお話と資料

1.蛭(ひる)になった荒石長者

粟ヶ岳のふもとの、小鮒川(こふながわ)というところに、一人のお金持ちが住んでいました。
この人は、ひどく欲深い人で、意地の悪いことをしてお金をためていたので、 村の人たちは、「荒石長者」と呼んでいました。
荒石長者は、無理しても粟ヶ嶽にのぼり、大きな音を出そうと、勢いよくつきかけました。
すると足元がすべり、谷底へ落ちて、死んでしまいました。
そして、地獄におちた荒石長者は恐ろしい蛭になってしまいました。
これを見た住職は、 「こんな悪い鐘なら、無いほうがいい」 と、鐘を井戸に投げ込み、埋めてしまいました。
それから後、この井戸を、無間山観音寺の無間の字をとって 『無間の井戸』と呼ぶようになりました。

2.喧嘩のはて

むかし、この粟ヶ嶽の近くに、川井成信(かわいせいしん)という殿様がいました。
そして、その近くには、大沢兵庫(おおさわひょうご)という武士が住んでいました。
ふたりは仲が悪く、何かといえばケンカばかりしていました。
ある日のこと、川井成信が、幕をはって山の上で花見の酒を呑んでいると、 来合わせた大沢兵庫が『何だろう』と、幕の中をのぞいて見ました。
川井成信は、大沢とわかると 「誰だ。のぞくのはきっと乞食だろう。魚の骨でも呉れてやれ。」 と言いましたので、大喧嘩になりました。
大沢兵庫は、 「おれが貧乏だから馬鹿にする。この無間の鐘をついて金持ちになってやるぞ」 と、無間の鐘をつこうとして、 ついに、山のお寺や松の木を焼いて、自分もまた、川井成信も焼け死んでしまいました。
それから後、この無間の鐘は、悪い鐘だと言われるようになりました。

3.その他の資料

江戸時代の書物では、滝沢馬琴『諸国里人談』『東海道細見記』『煙霞綺談』などでこの話が紹介されており、『東海道名所図絵』には炎に囲まれた阿波ヶ嶽(粟ヶ岳)が描かれている。安藤広重も無間の鐘を描いており、広く世間に知られていた話であることがうかがえる。


東海道名所図会
東海道名所図会


*このお話は『遠州七ふしぎの話』御手洗清 著を参考にしています。

 

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