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[掛川城]掛川市掛川

城下町通りを北上して緑橋を渡った左手が掛川城です。
掛川城は現在の掛川市街地のある平野部に位置し、標高57mの丘陵に建つ平山城です。復元された天守閣を中心に、歴史的に価値のある周辺の城郭施設も保全復元され、要所に丁寧に説明が施されています。戦国時代が終焉を迎え、その政治力と先見性を発揮して町ぐるみの整備を行使した山内一豊の時代、「東海の名城」とうたわれた掛川城の全貌を五感で感じられる名所です。

 

掛川城の歴史

●室町時代、駿河の守護今川氏が遠江浸出を狙って家臣の朝比奈氏に命じて築城。
●戦国時代末期に家康の命を受けた山内一豊が現在地へ移すとともに近代城郭へと整備。
●山内一豊の在城は天正十八年〜慶長五年(1590〜1600) 。
●山内一豊の築いた天守閣は慶長九年(1604)の大地震で倒壊し、松平定綱により再建された。元和七年(1621)のことといわれる。これが江戸時代を通じて掛川城天守閣の原形となる。
●宝永4年(1707)の大地震で天守閣は再び大破した。その後修復。
●嘉永七年(1854)安政東海地震で城は壊滅的被害。その後天守閣は再建されなかった。
●太田道灌の子孫太田家等、11家26代の居城として栄えた城である。

大手門側から掛川城を望む

[掛川城天守閣]掛川市掛川

市のシンボルともいえる掛川城天守閣は、小高い丘の上にその美しく力強い姿をたたえ城下町を見守っています。
掛川城天守閣は、全国初の考証論文付きの本格木造で平成5年に復元されたもので、高さは石垣上約16m、外観は三重、内部は四階で、屋根は本瓦葺き、外壁を白漆喰塗り篭められています。三重は黒漆塗りの廻り縁と高欄が巡らされ、屋根は東西棟の入り母屋で、二十屋根の南北には軒唐破風が付けられています。

 

掛川城の復元

●復元にあたって、『正保城絵図』(生保元年・1644)、『御天守台石垣芝土手崩所絵図』(嘉永四年・1851)、『遠江国掛川城地震之節損所之覚図』(安政元年・1854)などの文献、および現存する天守台遺構、高知城(掛川城の後に山内一豊が築城した城)の記録などが資料とされた。
●木造で復元された天守閣内部は青森ヒバを約1200石使い、木組みの技法を凝らし、強固な構造と機能美を本格的に再現している。
●最上階は当初金箔押しに濃彩の絵画が描かれていたとみられるが、画題が不明である特産の葛布とした。

  ※参照:『掛川城のすべて』掛川市教育委員会
 
 

関連リンク

●人物クローズアップ「山内一豊」

掛川城天守閣
天守閣の内部
『掛川城のすべて』より

[城山の主要配置]掛川市掛川

山内一豊が掛川城を築城した戦国末期から江戸初期は、戦国の実戦的な時代から政治的な時代へと様変わりする時期でした。その点からも掛川城は近世城郭の遺構を残す貴重な史跡といえます。
一豊時代の掛川城は、本丸、二の丸、三の丸、中の丸に加え、竹の丸、山下郭などの付属部分を加えたかなり大規模な城郭でした。掛川市では、天守閣だけでなく城山全体を本格的に調査保全し、わかりやすい説明を加えながら公開しています。

掛川城配置図
城の配置図
『生保絵図』を参照/建物はイメージ

[霧吹井戸]掛川市掛川

天守閣を目指してゆるやかな石段を上ると天守台があり、その脇に「霧吹井戸」があります。東海を制する重要な拠点であった掛川城には様々な伝説が残されています。
朝比奈氏が守るこの城を攻め落とそうとしたとき、この井戸から立ちこめた切りがすっぽりと城を覆い隠して難を逃れることができたと伝えられています。以来この井戸は「霧吹井戸」と呼ばれ、掛川城は「雲霧城」とも呼ばれるようになりました。

霧吹井戸は現存し、深さは45mあります。

霧吹井戸

[十露盤堀(そろばんほり)と三日月堀]掛川市掛川

四足門と呼ぶ本丸門から北へ伸びる水堀を「十露盤堀」といい、規模は不明確ですが、堀の深さは約3m、箱堀の深さは約1mほどでした。「十露盤堀」の名前の由来は定かでありませんが、水がたまった部分がそろばん箱のように見えるからこう呼ばれたといわれています。
また、本丸門(四足門)の前面には三日月堀があり、その規模は長さ30m、最大幅19m、深さは最深部で5mあります。これらの堀には暗渠排水が設けられ、自動的に水位の調節ができる工夫が凝らされていました。

 

三日月堀

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