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第6回[東海道] 平安の歌人−西行法師さいぎょうほうし 99/5/15

6-1西行の生い立ち

西行法師像(MOA美術館蔵)

 東西を結ぶ東海道にある小夜の中山は、『古今和歌集』『千載和歌集(せんざいわかしゅう)』『後撰和歌集』など20余りの歌に出てくる歌枕であり、峠付近には数々の歌碑、句碑が残されています。 その中でも西行法師の次の歌は西行晩年の陸奥修行の途中で詠んだ代表作とされる歌で、芭蕉をはじめ多くの歌人俳人がこの歌枕を訪ねて東海道を旅しています。

年たけてまた越ゆべしと思ひきや
  命なりけり小夜の中山

 窪田章一郎氏は『西行の研究』の中で「この歌は西行の全作品中のピークになっているものと見るべきもので、30代の初頭と69歳の現在との旅が、久しい時間の経過の上で把握され、人生的な味わいが全体からにじみ出ている歌である。徹頭徹尾、自己を歌おうとしてきた西行が、旅中にこの歌を詠んでいることは、その点から見ても、西行の文学を象徴する意味をもつということができる」と高く評価しています。

俗人時代の文化的環境

 西行法師は、鳥羽天皇の元永元(1118)年、藤原秀郷(俵藤太)の流れをくむ秀郷流の武門の家柄である佐藤氏の嫡子として生まれ、俗名を佐藤義清(のりきよ)と名乗りました。父親は幼少の頃世を去りましたが、母は堅物源清経の娘で、説によれば『梁塵秘抄口伝集』『蹴鞠口伝集』に出てくる清経ではないか、とされており、そうだとすれば、清経の雅な血が流れていたということになります。
 佐藤家は私領であった紀伊国田仲庄を荘園として寄進し、自ら預所として財をなしていきます。佐藤家は徳大寺家と先の関係(寄進先)にあったため、義清は元服後の多感な時期を徳大寺家の家人(けにん)として過ごしています。この徳大寺家は和歌の雰囲気を濃厚に持った一族で、若き日の義清に少なからぬ影響を与えました。一方で義清は当時流行のスポーツであった蹴鞠の名手であり、また西行が陸奥へ旅する途中鎌倉を通過するとき、頼朝に示した流鏑馬(やぶさめ)の射手としての見識は『吾妻鏡』で有名です。芸術的な環境にあってその感受性から非凡な才覚をあらわし武勇にも秀でた、義清の魅力的な人物像が浮かんできます。

自己形成的な出家

 義清は崇徳天皇の保延六(1140)年10月15日、23歳で出家しました。このことについて藤原頼長は日記『台記』(康治元・1142)に次のように記しています。 俗時自リ心ヲ仏道に入レ、家富ミ年若ク、心愁無キモ、遂ニ以テ遁世ス。人之ヲ歎美セルナリ。(原漢文)
生のスタイルを変える出家は当時めずらしくないとしても、何不自由ない権力者の嫡子が若くして出家したことは、知る人ぞ知る突然の出来事であったようです。
 西行という法号は西方極楽浄土をねがう浄土信仰にもとづいて付けた号といわれます。学僧として世に立とうとしたのではなく、信仰と作歌とを身をもって体得し、紫衣をまとう形式よりも純粋な信仰心を求め、文学表現を深めようとする自己形成的な出家でした(窪田説)。

歌の才覚

 やがて西行は鳥羽院の警護役である北面の武士となります。この身分は六位と下級であり、23歳で出家したため五位にあがることはなく宮中資格を持ちませんでした。このことは27歳の時『詞花和歌集』の選にあたり選ばれた彼の歌

身を捨つる人はまことに捨つるかは捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

が、「読み人知らず」とされたことにつながっています。出家後、法皇の崩御により西行の宮中での力はさらに衰えますが、主家に徳大寺実能がいたことや、実能の妹待賢門院璋子が鳥羽天皇の后であったなどのつながりから堀河局、兵衛局ら女房たちとの歌会に招かれるなど、歌や信仰によるつながりを続けました。もちろん西行の並外れた詩才がものを言ったことは言うまでもありません。西行没後の勅撰和歌集である『新古今和歌集』では最高の入集、94首を数えました。これは『新古今和歌集』の親裁後鳥羽院の賞揚、推挙が影響したとされ、『後鳥羽院御口伝』によれば 「おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず」 と賞賛しています。

*参考文献 『東海道小夜の中山』 中部建設協会発行
  『西行の研究』 窪田章一郎著 東京堂
  人物叢書『西行』 目崎徳衛著 吉川弘文館
  人と思想140『西行』 渡部治著 清水書院
  『西行』 饗庭孝男著 小沢書店

 

6-2『西行法師の旅と修行』

 

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