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第6回[東海道] 平安の歌人−西行法師さいぎょうほうし 99/5/15

6-2西行法師の旅と修行

西行物語 小夜の中山の図(国立国会図書館蔵)

西行の旅の意味

西行は『山家集』「五首述懐」の中で、

うかれ出づる心は身にもかなはねば
  いかなりとてもいかにかはせん

という歌を詠んでいます。これは花であれ旅であれ憧れるものを目指して心が身から離れていくことを現しています。西行は旅という非日常的空間に己を置くことによって独自の美意識を展開し、また旅によって西行の美意識が磨かれていったともいえます。数奇にまかせて旅に出ることは、遁世者とは名ばかりの風来であったわけではなく、当時は現世の数奇と来世の救済の矛盾解決を求める宗教的文学理念でした。旅は芸術家であり宗教家である西行の人生の証であったのでしょう。
 最初の大きな旅は、おそらく西行が30歳以前のこと、祖先の出身地である陸奥(みちのく)平泉へ歌枕を訪ねる旅を敢行しています。陸奥から帰洛後、真言霊場の高野山に入って草庵を結び、その生活は30年に及びました。
  仁安三(1168)年、51歳のころ、讃岐を目指して四国への長い修行に出ました。時は鳥羽院政の末期、乱世の気配が高まる情勢にあり、この旅は崇徳院の鎮魂という政治的意味を含んだ旅であったと言われています。そのような目的にあっても、讃岐修行の旅の作には備前国児島あたりから瀬戸内海を渡る途中で眼にした漁民、商人などの生きざまがいきいきと描かれており、若年期の歌よりも多面的で深みのある西行の数奇心がうかがえます。
  乱世の間は伊勢に疎開して過ごし、文治二(1186)年、69歳の西行は、ほぼ40年ぶりに陸奥へ東大寺再建の勧進修行に赴きます。老西行にとってはさいはての陸奥への旅は不退転の決意を要した旅であったはず。この旅は西行の心にひそむ菩提心の発露に他ならないでしょう。この旅の途中、東海道を下りつつ、代表作というべき二首を詠んでいます。

東の方へ相識りたりける人の許へまかりけるに、小夜の中山見しことの昔になりける思ひ出でられて

年たけてまた越ゆべしと思ひきや
  命なりけり小夜の中山

東の方へ修行し侍りけるに富士の山を見て

風になびく富士のけぶりの空に消えて
  行方も知らぬわが思ひかな

数奇の達成

西行がいつ陸奥の旅を終えたのか明らかではありませんが、文治三(1187)年には嵯峨の草庵に入っていたようです。嵯峨で詠んだ「たはぶれ歌」には

うなゐ子がすさみにならず麦笛の
  声におどろく夏の昼臥し

などとあり、杖にすがって昼寝にまどろむ西行の老いが印されています。長旅の疲れと、この時代に稀な70歳に達したという自覚が、西行に迫り来る死を予期させ、生涯の数奇を自ら締めくくる決意をさせたようです。『御裳濯河歌合』と『宮河歌合』の自撰です。それまでは流行をきわめた歌合に自作を出さない方針を貫いてきた西行が、「伊勢の太神宮に奉らむ」として独創的な自歌合制作を試みたのでした。

西行晩年の手紙

  文治五(1189)年のころ、西行は高尾の神護寺に登山し、そこで少年の明恵にむかって「 この歌は即ちこれ如来の真の形体なり、されば一首詠み出でては一体の尊像を造る思いをなす、一句思ひつづけては秘密の真言を唱ふるに同じ。」 と和歌の本質を説いています。この言葉にはのちの明恵上人に対する潤色が混じっているかもしれませんが、西行の到達した和歌観の究極と読み取れます。しかし、西行は年来かかわってきた数奇を無条件に肯定したわけではありません。上記の言葉の前に、花や月をはじめ眼に見え耳に満ちる万物すべて「虚妄」であり、みずからも年来「この虚空如なる心の上に於いて種々の風情をいろどる」わざをしてきたが、むなしくも「さらに蹤跡無し」と、痛切な反省を告白しています。これは、数奇の魔性を知りつくした詩人の真率な述懐の言葉なのでしょう。
 西行は最晩年「慈円」と名乗り、建久元(1190)年2月16日、弘川寺にてその生涯を閉じました。

 

*参考文献 『東海道小夜の中山』 中部建設協会発行
  『西行の研究』 窪田章一郎著 東京堂
  人物叢書『西行』 目崎徳衛著 吉川弘文館
  人と思想140『西行』 渡部治著 清水書院
  『西行』 饗庭孝男著 小沢書店

6-1『西行法師の生い立ち』

 

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