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地名のお話

第9回 信仰と地名

古来、山や大木など自然を神とした信仰。その土地に文化的組織的な新信仰が伝えられ、時を経て盛衰を重ねて、人々の暮らしにさまざまな影響を与えてきました。その信仰が力をもち、広く浸透するにつれて土地の呼び名となり、盛んであった時代を今に伝えています。

粟ヶ岳 あわがたけ(東山・初馬・倉真の境)

粟ヶ岳は、小夜の中山の北東、日坂宿の北東にある標高532mの小高い山で、遠くから見てもすぐに形が判別できるため、昔は海洋を往来する人々に遠州灘の標識とされていたそうです。 粟ヶ岳の字は、『掛川誌稿』巻二西山村の条には「粟獄岳」の字が用いられています。粟獄岳の「アワ」については、頂上付近に阿波々神社があり、この神社領であったことから字が転じて山の名となったことはおして知るべしと誌稿で述べています。
各地に阿波神社があることは、神名帳からわかります。伊豆國加茂郡阿波神社、大和國添上郡率川阿波神社、伊勢國度會郡粟皇子神社など同名、同音の社が全国に数多くあり、諸国の式社に「阿波」「安房」「粟」などとある神社は斎部氏の立てた祖神の祠で、大王命、天富命、日鷲命などを祀っています。しかし、粟ヶ岳の阿波々神社には「々」が入り、印本延喜式にも「阿波々神社」とあるといいます。誌稿では「乃」の字の誤りであろうと書かれていますが、記録もなく詳細はわかりません。五明村の粟宮や粟隣寺、倉真村の宮の嶋八幡など近隣にはこの阿波神を祀った古祠などがあり、往時は周辺に影響力のある神社であったようです。
粟ヶ岳は、別の名を「無間山」といい遠州七不思議にも数えられる「無間の鐘の昔話」が伝えられています。

 

天王町てんのうちょう

天王町は掛川城から500mほど北側に位置する町で、昭和49年に下西郷から別れた新しい町名です。『掛川誌稿』によると、掛川城北門にある龍華院の寺山が古くは天王山と呼ばれていたとあり、おそらく掛川城築城以前には城敷地内にあったといわれる牛頭天王から名付けたものと思われます。
同じ天王町という町名が浜松市にもあります。地内には同様に牛頭天王を祀る古社天王社があり、天竜川支流安間川岸に位置します。龍は川や水難を現すことから、逆川域にある掛川市城下も牛頭天王を祀ったのでしょう。掛川の牛頭天王では、旧暦六月十五日に多くの人が歌い踊る賑やかな祭りが行われたとの記録があります。また、牛頭天王は満水(タマリ)千羽(センバ)など近隣の村にも祀られており、昔の暮らしが水と深い関わりをもっていたことがうかがわれます。

十九首 (じゅうくしゅ)

十九首町は、地元では「ジュウクショ」とも発音され、平将門ら十九名の武将の首を供養したと伝説から名付けられました昔ばなし/十九首の首塚様。はじめは東光寺内の十九首神社(十九首八幡)に祀られましたが、後に大池八幡神社に移されたといわれます。この大池八幡は、江戸後期には「牛頭天王八幡」と呼ばれていたそうです。将門の首を洗ったといわれる二俣川から近く、出水の度に浸水したことから、いつしか牛頭天王が祀られたのかもしれません。

※現在は「池辺神社」。明治4年に改名。

亀の甲 (かめのこ)

現在掛川駅南側にあたる亀の甲には、2つの説があります。ひとつは信仰説で、亀甲村天神という菅原道真公の像を奉ったところがありました。この祠は観音像も奉っており、その像の蓮華座に亀の甲があり、地名はここから起こったものではないかとする説。もうひとつは、古く小掛川という川の上流にあり、「上ノ川」と呼んだのが訛って「亀甲」となったという説で、少し無理があるように思えますが、川→甲の例は多数あるとしています。観音像は江戸期に移されたようですが、蓮華座に亀甲をいつほどこしたのかがわからず、 真偽のほどはわかりません。ただ、『掛川誌稿』に亀甲村天神について条を割き詳しく記されていることから、この天神様が人々の感心を集めていたことが伺われます。


 

参考文献 『掛川誌稿』
 
『角川日本地名大辞典22静岡県』角川書店
  『東海道小夜の中山』中部建設協会
  『平将門伝説の地 十九首塚ご案内』掛川市文化財保存会
*画像提供 『東海道小夜の中山』中部建設協会

 

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