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タイトル  

[諏訪原城跡]金谷町金谷

金谷坂下り口から右折して東海道を小夜の中山方面へ400mほど進むと右手に「諏訪原城跡」の看板があります。諏訪原城跡は、戦国時代の山城の遺構で、空堀や土塁、曲輪など地勢を巧みに活かした高度な築城技術が保存されている城跡です。

狭い露地から続く大手口側入口から100mほどの所に諏訪神社があり、そこが大手門跡。順路に従って1.5kmほどの見学コースになっていて、30分くらいでめぐることができます。

諏訪原城跡概念図

東海道の道標
東海道の道標
東海道からの入口
東海道から諏訪原城跡へ右折

[諏訪原城跡(すわはらじょう)]

諏訪原城跡には建築物が残されていないため、一見すると森にしか見えない城跡ですが、実は自然の地勢を巧みに活かして建てられた戦国末期の山城です。
諏訪原城の城域は、南北には御前崎方面に伸びたゆるやかな斜面で、北側にもほとんど平らな台地が続いています。西側は谷を下ると菊川、東側には金谷宿が脚下に見え、城の北部と東部は急な傾斜で険しい断崖をなしています。
この地勢を巧みに活かして台地に店主や本丸を建築し、谷を空堀として築いた要塞が諏訪原城でした。城郭の周囲には巨大な空堀のラインが二重に設けられ、その外に張り出して武田系特有の丸馬出しと三日月堀が設けられています。

諏訪原城は、貴重な戦国期の城郭跡として、昭和50年に国の史跡として指定されています。

 

武田の城−諏訪原城の歴史−

諏訪原城は、天正元(1573)年武田勝頼が家臣の馬場美濃守氏勝に命じて築いた城で、武田家の守護神の諏訪明神を奉って諏訪原城と名付けました(諏訪原城あるいは諏訪の原城と呼ばた)。
勝頼は天正二(1574)年に高天神城を攻略し三河進出を果たしましたが、翌天正三年五月には織田徳川軍の鉄砲隊により甲斐へ逃れ猿ことになります。そして家康が三河から遠江へと進出して6,7,8月と諏訪原城を攻撃しました。このとき甲斐からの援軍もなく将士は吉田城へと逃げ去り、8月24日に城は家康の手に落ちました。

家康は諏訪原城を牧野城と改名し、城主に松平周防守康親を置きました。その後武田軍は諏訪原城奪還をめざして徳川軍と交戦しましたが敗退し、天正十(1583)年三月、勝頼が天目山で自決して武田は滅びました。やがて牧野城の役割もなくなり、廃城となって天正十八年に取り壊されました。

 

諏訪原神社
諏訪原神社
諏訪原城跡15号堀付近
諏訪原城跡15号堀付近

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