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掛川祭の歴史

 古くは掛川宿といわれたこの町は、時代の流れとともに大きく変化してきました。伝統を伝え、昔のままの姿をしているように感じられるお祭りもまた、変化してきています。とくに江戸時代の祭と、明治時代、大正・昭和戦前、戦後の今日とでは、かなり変化があるように思われます。
 掛川の土地に人々が住み着いたとき、神を崇め、社の森に社殿が建立され祭礼が営まれました。住民の力をこえた自然に対し、霊威を感じ、神霊の降臨を求め和らげて、五穀の豊穰や悪疫の退散を神に祈願する信仰にはじまり、神意を慰める神楽の演舞と風流の練りが加わり、巡幸の行列を形成したお祭です。

 当初は、宿場町十三町から始まった掛川祭は、江戸時代になると城主の領民鎮撫策から、年に一度の祭りは”無礼講”にし、城中への参内を許して放歌乱舞しました。  お祭りは、神の祭りから人々の祭りへと移り、自治体の都合で祭礼の日も統合されました。また町の振興のため各町が競って華麗盛大になる一方、他所に出かけた親類縁者をこの日は郷里に迎えて御馳走して見せる祭りとして、観光的な祭りの要素が加えられました。

 今日に伝わる三大余興や、大祭りの出し物等が本格化したのは、明治中期の日清戦争の凱旋を記念する祝賀を兼ねた大祭だったようで、明治後期以降の祭りのようすは、写真や絵はがき等で知ることができます。3年ごとの大祭に三大余興と屋台が定着し、小獅子は小祭に出されました。すでに、昭和の戦前に町の商工会が観光の祭りとして力を入れており、昭和初年の大祭は華美の絶頂となりましたが、昭和11年を最後に大祭は戦争のため中止され、小祭も簡素化しました。
 戦争中の不安な時代には青壮年は応招され、銃後では武運長久の心を込めて、神に祈願する祭礼として、女子は神前に浦安の舞を奉納し、子供たちは小獅子で威勢をあげました。戦後は、混乱の裡にもまず祭りが復活し、終戦の直後の昭和20年秋には、小獅子や子供の山車が練り歩きました。その後、活気をとりもどし、小祭りにも屋台が出されるようになり、現在の掛川城下町の最大のイベントとなっています。

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