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奴道中

徳川時代の薩摩藩の大名行列を模して生まれた、西町の伝統的な余興です。奴は黒繻子(しゅす)の法被に襟は白ちりめんといういでたちで、勇ましい掛け声とともに、白毛の槍印を付けた長柄の槍をふりあう熟技は、勇壮で見ごたえ十分です。



大名行列の歴史

 城下町掛川の歴史を伝える出し物で、五万石の掛川藩主として善政をしき、幕府の老中も勤めた太田侯を懐かしんで、江戸時代より少し離れた時期に、懐古的に再現されたものです。
 戦前の昭和8年の解説に、「大名行列の由緒に秀吉の朝鮮征伐の時、講和使者として派遣された朝鮮の三王子を警護した薩摩藩の行列を模したものと伝える」とありますが、江戸時代に掛川藩の城下で町人が縁もない外様大名の行列を模倣したとは考えられず、明治に入ってから掛川藩や静岡藩の恩恵が薄れ、薩長藩閥政府が定着したころ、旧宿場町の人々が昔を懐かしんで往時の行列を再現したものと言われています。
 明治20年代初めにお祭りで西町の青年が外国風俗の仮装行列をした写真も残っており、大名行列に決まったのは、日清戦争の下関会議を太閣征韓に仮託して戦勝を祝ったものと考えられます。当初は王子の輿や、楽隊・青竜刀その他朝鮮風俗の供回りを伴い、衣装や持ち物も伝わるが早く廃されたといいます。大名行列に用いる笠やお道具につけた紋所は、掛川城や掛川宿の鎮守の御天王様(龍尾神社)の神紋が付いていますから、掛川藩の大名行列というべきでしょう。
 この大名行列も、昭和10年の大祭を最後に戦争のため中断しました。戦後は、昭和36年、奴道中として奴さんの手踊りで再現され、昭和60年の大祭で大名行列として復活しました。

大名行列の様子

 行列は、先頭に宿役人数人と、同心が威儀を正して、「下に、下に」と掛け声をかけて進み、続いて金紋千箱、白毛の槍印を付けた長柄の槍数本、大傘、立傘、大鳥毛、の奴さんたちが、勇ましい掛け声揃えて、互いに振り合う熟技のさまは見事です。次に、若侍の一隊御先槍、御鷹匠、御鉄砲、御弓、御槍、御刀箱、御具足、御薙刀など、数十人、御太刀持ちの先駆、殿様の御乗り物(御駕籠)、御駕籠脇衆、警護の侍、御後槍と続き、御茶風呂、御茶坊主が随行し、花籠、合羽籠、竹馬、この次に屋台の先頭綱引き、花子大勢が綱を引き、屋台と続きます。これに続いて御荷物として、長持ちの一行は、宰領が付き添い、節面白く長持ち唄を歌いながら進みます。


奴さん

 大名行列の花形が奴さんです。衣装が豪華で、法被は黒繻子(しゅす)で紋は白縮緬(ちりめん)で縁を金糸でかがってあり、襟も同じように、また”まわし”は赤のラシャで奴の紋に金糸の縁かがりをした派手なものです。
奴さんの見物は、なんといっても槍の受け渡しですが、昭和11年の大祭の逸話には、こんな楽しいお話もあります。
最後尾の方で、長持ちの奴さん役の人足たちが、ところどころで車座になってバクチを始めてしまいます。そこへ宰領が来て「もう少し酒手をはずむから、次の宿までがんばれ」と言うと、また立ちあがって唄を歌って担いで進みます。もう長持ち唄を歌える人はいないだろうと言われますが、この最後の長持ちまでが西町の祭典余興の行列ですから、いくら後れて間があっても、この間を他の町の屋台が横切ることはできないそうです。


 

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